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広島 蔦屋書店が選ぶ本 VOL.268『死ぬまでに行きたい海』岸本 佐知子/スイッチパブリッシング

蔦屋書店・犬丸のオススメ『死ぬまでに行きたい海』岸本佐知子/スイッチパブリッシング
 
 
本には、それぞれが醸し出す気配のようなものがある。多くの本が並ぶ書店の中で、その気配を敏感に察知し目が留まり手を伸ばす。
 
著者の岸本佐知子さんといえば、翻訳家としてとても有名だ。「岸本訳に外れなし」と言われるほどで、ショーン・タンの『いぬ』『セミ』(ともに河出書房新社)などをはじめ、ルシア・ベルリンの『掃除婦のための手引き書 ルシア・ベルリン作品集』(講談社)や、最近では翻訳家の柴田元幸さんと出版された、まだ日本では知られていないがおもしろいと思う掘り出し物の短編を翻訳して紹介する『アホウドリの迷信 現代英語圏異色短篇コレクション』(スイッチパブリッシング)など、どれもおすすめしたいものばかりだ。
そして同時に岸本さんといえば、エッセイストとしても人気が高い。『ねにもつタイプ』『ひみつのしつもん』(ともに筑摩書房)など、数ページで岸本さんの妄想の世界にヌルンとはまり抱腹絶倒。読み終えた後には宇宙遊泳でもしてきたかのような不思議な気分と、笑いすぎて一試合終えたような爽快感が交じりあう。そのうえ、どこかに出かけたくなるくらい元気になれる。本が醸し出す気配もいつもなんだか明るい。「笑えます。さあ、どうぞー」と本から話しかけられている。
 
だが、今回紹介するエッセイ『死ぬまでに行きたい海』は、いつもの明るい気配とは違っていた。違うけれども、とても気になる佇まいをしていて何度も目が留まるのに、岸本さんの本だとすぐに気付かなかった。カバー表紙には、どこの国の物かわからない猫らしき陶器の置物がこちらをまっすぐに見ている。「岸本佐知子」の著者名にもなぜか、同姓同名の作家っているんだなと思ってしまったほどだ。それほどいつもと違う気配を漂わせながら、手に取られるのをじっと座って待ってくれているようだった。
 
「出不精」と公言する岸本さんが、どこかに行ってエッセイを書く。それだけでも驚いたが、エッセイから受ける印象もいつもと違ってドキドキする。いつもよりもう少し内側の岸本さんを思いもよらず見てしまっているのではないか。こんなことまで書いて、大丈夫なのだろうかと心配してしまったところもある。同時に、この話を書いているときはどんな感情だったのか聞いてみたい。大学生のころ将来に悩む岸本さん。海芝浦の駅のホームでぬるい潮風に吹かれ、生きていると感じる岸本さん。酔っぱらってやってしまったこと。重なる記憶と現実、過去と現在。
内容に触れるとこれから読む人の楽しみを奪いそうなので、これ以上はやめておこう。岸本さんのエッセイは、読んでない人にもおすすめだが、岸本さんのエッセイが好きでまだこの本を読んでいない人には、ぜひとも読んでみてもらいたい。さらに岸本さんと岸本さんが書く文章が好きになる。いつも以上にひとつひとつのエッセイの最後の一文にしびれる。
 
そしてもうひとつのおすすめは、この本には岸本さんのiPhoneで撮影された画像が掲載されている。岸本さんの話によれば、エッセイにあわせその場所のイラストを描いてもらい掲載する予定だったらしい。岸本さん自身も素敵なイラストが添えられたエッセイに憧れていたそうだ。そのため、行った場所の画像を撮ってきてほしいと出版社から言われていたのだが、岸本さんの原稿が遅くイラストが間に合わない。そこで岸本さんが撮影した画像を使用することになったそうだ。
だが、この画像がとてもよいのだ。
視点は人それぞれ違う。同じ場所を同じように訪れても同じものを観ているとは限らない。感じ方も違うので、記憶のしかたにも違いが生まれる。岸本さんが撮った画像を通して岸本さんの視点がわかる。ああ、こんな風に世界を観ているのか。文章を読み、画像をしばらく眺める。そして文章に戻る。岸本さんの原稿が遅くてよかった。画像によってさらに岸本さんの近くに行けたような気がするから。
 
もちろん、岸本ワールドは健在で、いつの間にか違う世界に入り込んでしまっている。だが、いつもよりもミステリ要素多めで、ホラーなのかしらとゾワッとした話もあった。
この本が醸し出していた、あの静かな気配はきっと本の内側からやってきていたのだ。
読み終わった後は、やはり出かけたくなった。だが、いつもの元気いっぱいとはまた違う、しっとりとした一人旅が似合う。この本を持ってあのエッセイの場所へ。あまり詳しく調べず適当に迷いながら歩き、運よく画像が撮られた場所へ行けたら嬉しくて笑ってしまうだろう。
 
「エッセイを書くことが死ぬほど嫌い」と岸本さんは言うが、「じゃ、やめてもいいよ」と誰も絶対に言わないでほしいと願っている。
 
 
 

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