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広島 蔦屋書店が選ぶ本 VOL.325『超人ナイチンゲール』栗原 康/医学書院

蔦屋書店・犬丸のオススメ『超人ナイチンゲール』栗原 康/医学書院
 
 
幼いころ母が買ってきてくれたナイチンゲールの伝記。
繰り返し読む姿を見ながら「将来は看護師を目指してほしい」と母は考えていたことだろう。
子供向けの伝記の中のナイチンゲールは優しく献身的で慈悲深く、負傷兵の包帯を取り替え、シーツを交換し、床の掃除をする。まさに「クリミアの天使」だった。幼心にも「すごい人だなぁ」と思ったのは間違いないが、同時に「家柄がよくてお嬢様育ちの人が、こんなに大変な仕事ができるのだろうか」という思いの方が強かった。それも「神の啓示」を受けて看護の道に進んだという。「神の啓示」で?
どこかしっくりとせず、だが「神の啓示」には興味津々で、看護の道には進まなかったが、ナイチンゲールは強く記憶に残っていた。
 
そのナイチンゲールの評伝が医学書院の「ケアをひらく」シリーズから出版された。しかも著者はあの栗原康さんなのだ。わたしにとって、これはただ事ではない。
 
栗原 康さんといえばアナキズム研究が専門で、『何ものにも縛られないための政治学 権力の脱構成』(KADOKAWA)や『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ』(岩波書店)など多くの著書がある。フリースタイルともいえる文章はまさに疾走。パンクを聴いているときのようなハイな気分になる。(断っておくが危険な本ではない)
一方、医学書院の「ケアをひらく」シリーズといえば、本書『超人ナイチンゲール』を始め、『わたしが誰かわからない』『シンクロと自由』『みんな水の中』など、それぞれ専門家や当事者が「ケア」について書いている。専門家や当事者と聞くと、シリアスで関係者以外は読みにくいように感じるかもしれないが、著者はどの方もめちゃくちゃ個性的。読後には周りの世界の見え方が、がらりと変わってしまうことがとても多い。その世界を体験できる書籍なのだ。
 
まさか栗原 康さんのナイチンゲール評伝が読めるとは。しかも「ケアをひらく」シリーズで。
とにもかくにもカッコいいナイチンゲール像がここに爆誕した。
 
1820年にイギリス人の上流階級の家庭に生まれたナイチンゲールが、なぜ、どのようにして看護師を目指したのか、どのように実践、改革し、なにを残したのかは、ぜひ本書を読んでいただきたい。彼女が看護師を目指したのは、イギリスの上流階級では女性が働くなど考えられなった時代だ。しかも、看護師は汚らしい賤しい仕事とされていた。志しても一筋縄ではいかないが、わずかな理解者に支えられながら医療への教養を深め経験を積み、自身の信念を貫き生涯をかけて行動していく。看護を自立した職業として、医療というシステムに組み込んだのだ。
 
読みどころはそれだけではない。栗原さんによって描かれるナイチンゲールは、めっぽう強い。最高なのだ。気持ちいいくらいにガンガン突き進んでくれる。34歳、総監督としてクリミア看護派遣団を率いて戦地の病院へ行く。病院は物資不足で不潔極まりないし、軍は看護活動を認めない。負傷者たちは日々亡くなっていく。
軍の倉庫から物資を出させたいナイチンゲールに対して、上からの許可がないとダメだという軍の役人。ナイチンゲールは言う。「わたしがその責任者です。」さらに檄を飛ばす。「野郎ども、やっちまいな」「ヘイ!」屈強な男たちが倉庫をこじあけて、軍の物資を次から次へと強奪。そこには屈強な男を従えハンマーを持つナイチンゲールの挿絵まである。気持ちよすぎて笑ってしまうのだ。
 
実際のところ、ナイチンゲールが「やっちまいな」とは言わないにしても、政府の意図や、軍との確執、看護団内の個人的事情など、頭の痛い問題が山積みであっただろう。その中での観察力、状況判断、実行力は、尊敬すべきリーダー像がある。必要ならば私財も人脈も使えるものは使い、必要な物資を調達し改革していく姿を、栗原 康さんの文章がさらにカッコよくしている。ナイチンゲールに先導されて、最後まで一気読みなのだ。
 
第二章「憑依としての看護」のなかで、ケアについてこう書かれている。
「あえていえば、ケアだろうか。無味乾燥な治療ではない。医療の専門家であるわたしがずぶの素人である患者に上から命令をくだすということではない。とにかく相手によりそうのだ。自分では決して感じたことがないような他人の感情のただなかに、自分自身を投げこんでいく。それを看護とよんでいるのだ。」(P80より)
「わたしひとりでは決してかんじることのないような感情をいだく。きっと、あなたのおもいそのものでもないだろう。あなた以上のあなたになってあなたをおもう。もとめられていなくてもおもいがあふれてやっちゃうのだ。おせっかいかよ。」(P81より)
「(略)…自分なんてどうでもよくなってしまう。あなたにむけて、自分を放りだしてしまうのだ。そこに自由意志はない。目的もない。だれにもとめられているわけでもないのに、なんでもしてやりたいとおもってしまうのだ。救うがゆえに救う。看護は必要なのだ。」(P81より)
 
これは、ケアの本質といってもよいのではないだろうか。ケアをする側とされる側の関係は対等でなければならない。自身の体をあつかうように他者の体をあつかい、あつかわれるほうも自身があつかっているようにあつかわれる。お互いの体の境界線が溶けあうように。そこには対話も必要であろうし、なによりまず動きだしてしまう体が現れるのだろう。
さらに、ケアはする側からの一定方向ではなく、ケアする側も同時にケアされているという相互的なものだ。ナイチンゲールもケアすることにより、傷や病が癒えていく人によって、ケアされていたのではないだろうか。そこからさらに、無限なすべての関係によってケアはひらかれていく。
 
全ての「こう在りたい」によりそうケアは、とてもカッコいいのだ。
 
 
 

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