広島 蔦屋書店が選ぶ本 VOL.77

蔦屋書店・神崎のオススメ 憂鬱な10か月イアン・マキューアン著 村松潔訳 / 新潮クレスト・ブックス

 

 

というわけで、わたしはここにいる、逆さまになって、ある女の中にいる。
 
この物語の語り手が誰だか、お分かりになるだろうか。そう、胎児だ。あと数週間で誕生の日を迎えるであろう胎児だ。
 
ふつう胎児といえば、母親のお腹の中で安らかに産み出される時を待っている、はずだ。しかし〝わたし〟は違う。母親の聴くラジオから国際情勢や社会問題に精通し、母親の飲むワインを共に嗜みながら日々考え、想像しているのだ。やがて生まれ出ていく世界を。
 
母親は夫、〝わたし〟の父親、を言いくるめて家から追い出し、夫の弟、つまり〝わたし〟の叔父と同棲して自堕落な生活を送っている。
 
ある日、母親と叔父の不穏な計画を耳にする。父親を毒殺し、〝わたし〟をどこか養子に出そう、というものだった。
 
計画を知ってしまったからといって、身動きできない子宮の中で逆さまに幽閉されている〝わたし〟に何ができるのだろう。父親の毒殺が実行されないことを願うだけか。もし実行されてしまったら〝わたし〟はどうなるのだ。狭い刑務所の監房が〝わたし〟の生活の場となるのだろうか。
 
芥川龍之介の小説『河童』の中に次のような場面がある。河童の世界ではお産をするとき、父親が母親の生殖器に口をつけて「お前はこの世界へ生まれてくるかどうか、よく考えた上で返事をしろ」と腹の中の子に尋ねる。子どもが「僕は生まれたくはありません」と答えると、産婆が生殖器に液体を注射し、大きかった腹は瓦斯を抜いた風船のように縮んでしまう。
 
もし〝わたし〟に「生まれたいか」と尋ねたら、どう答えるだろう。たとえどんな状況であったとしても、その世界を、10か月共に過ごした母親を、自分の目で見るために生まれることを選ぶに違いない。
 
新生児はまっさらで、何も知らないと私たちは思っている。いや、実際は全てを知っていて、全てを分かっていて、それでも誕生することを選択しているのかもしれない。
 
 
〝わたし〟の未来に何が待ち受けていても、「幸あれ」と願うだけだ。 
 

 

 

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