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広島 蔦屋書店が選ぶ本 VOL.331『どろぼうのどろぼん』 斉藤 倫 牡丹靖佳 画/福音館書店

蔦屋書店・佐藤のオススメ『どろぼうのどろぼん』 斉藤 倫 牡丹靖佳 画/福音館書店
 
 
書店の垣根を越えて、各分野の知識豊富なスペシャリストたちが集まり、心からオススメしたい作品をセレクトする、ブックセラーズ&カンパニーの「一読三嘆」。
今回はその「一読三嘆」の中から、児童書『どろぼうのどろぼん』をご紹介したいと思います。
 
泥棒を主人公とした読みものということで、正義か悪か、追いつ追われつの冒険譚かと思いきや、手に取ってみれば、外見も中身も何とも優しくふんわりした雰囲気をまとったこの本は、ある雨の日盗みに入ろうとした主人公どろぼんが、偶然出くわした刑事に逮捕される場面から始まります。警察で取り調べを受けることになったどろぼんが、これまで行ってきた泥棒の顛末を語るというかたちで、物語は進んでいきます。
 
どろぼうの天才であるどろぼんは、今まで千件を越える盗みをはたらいてきましたが、彼が盗むものというのはいわゆる金目の物というのではなく、ある決まった特徴をもった物たちです。それはたとえば、ジューサーミキサーだったり、壁にかけられた大きな油絵の作品だったり、或いは子どものリュックサックだったり。
なぜ、そしてどうやってどろぼんがそれらを盗むのかということについて、ここで詳しくは申し上げません。ぜひ本書を直接お読みになって、そして思いを巡らせてみて頂ければと思います。どうぞどろぼんの話にゆっくりと耳を傾けてみてください。不思議で面白くて思わず引き込まれるような、それでいていろいろなことを私たちに問いかけるような話、見過ごされがちな現実に目が向けられた、心がしんと静かになるような美しさを持つ話を、本当に素敵な文章と挿絵で、本の手触りや重みとともに味わって頂きたいです。
 
詩人であり、児童文学作家でもある斉藤倫さんの紡ぐ言葉の瑞々しさ、文章の心地よさは、読んでいて嬉しくなってくるほどです。思わず引き込まれるような美しい情景描写や、登場人物の心の動きを伝える繊細な表現。それからたびたび用いられる絶妙な比喩の言葉選びの面白さ。例えば以下は、どろぼんの取り調べを担当するチボリ刑事の後輩で、身長も大きければ態度も大きい、新米のオーハス刑事の様子を表した文章です。
 
〈 …オーハスは、あごに手をあて、そのひじをもういっぽうの手でささえる。それが、ねじくれた枝に見える。でかくて、しかも薄茶色のスーツを着ているので、ひとというより、ほとんどブナの木だ。〉
 
〈 「せんぱい」…背中から突然、土砂崩れのような大声でよびかけられた。〉
 
〈 …オーハスは、三切れのたくあんを、一気にハシではさんで、口にほうりこむ。溶鉱炉に、鉄鉱石をほうりこむみたい。…〉

それからまた、斉藤倫さんが創り出す物語世界を表現する、現代美術家・牡丹靖佳さんの描く挿絵が見惚れてしまうほど素敵です。ページの余白を自在に使う表情豊かなカット画も素晴らしいですし、またところどころに挟まれる、ページをまるまる用いた一枚絵の淡くて透明感のある美しさは思わず息を呑むほど。牡丹さんの絵は、不思議で優しくて淋しさをはらんだどろぼんのお話にしっとりと響き合いながら、その魅力をさらに引き立てているように感じます。
 
ところで、誰かがある本を読んで何を思うのかということは人それぞれで、その広がりがおそらく読書の面白さであろうと思います。果たしてこの本の紹介になるのか分からないのですが、『どろぼうのどろぼん』の物語を通じて私が思ったことを、以下少しだけ書かせて頂こうと思います。
 
読み終えて、いちばん心に残ったのは、「役に立たない」ということに向けられた、この本のまなざしのあり方です。
どろぼんが盗むさまざまな物たち。もともと「物」というのは、どれも全て、それぞれ役割を持ってこの世に生み出されます。物は何らかの「役に立つ」ために作られ、そして存在しているのです。
翻って人はどうなのか。 私たちは、自分が誰かの役に立つことに喜びや生き甲斐を感じます。自分が世の中で有用な、いわゆる使える人材であることを望みもします。そうあらねばならないと考え努力するのが当然だと考える人も多いでしょう。生きるうえで自分が「役に立つ」存在であるかどうかということは、私たちにとって常に無視できない重要な問題であるように思われます。
本書の中で繰り返し描かれる、本来は役立つための存在である「物」たちの葛藤は、ひとり暗い場所に陥り、必要とされぬ自分を否定しながら生きる人の心の姿に重なるような気がします。
 
物語の終わり近くで、チボリ刑事は、ある特別な公園を訪れて、周りを眺めて歩きながら次のように考えます。
 
〈 公園というのは、なにかのためにある場所じゃない。
なんの役にも立たないことが、だいじなんだ。
この公園は、そういうふうにつくられている、と思った。
たとえばひとが、世の中のだれにも必要とされず、どこにもじぶんの場所がないように思える日に、落ちつけるところ。
ほんとうに無力で、意味がなくて、それでもそこにいていいんだって、いってくれる場所。
それが、公園なのかもしれない。…〉
 
物語の最後には、ほとんどどろぼんの魅力のとりこになってしまう、チボリ刑事とオーハス刑事。実在する公園と同じ名前を持つ彼らに、作者の方は、どんな思いを込めたのでしょうか。
 
 
 

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