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広島 蔦屋書店が選ぶ本 VOL.282『よるのかえりみち』みやこしあきこ/偕成社

蔦屋書店・佐藤のオススメ『よるのかえりみち』みやこしあきこ/偕成社
 
 
とても昔の、しかも自分の話で恐縮なのですが、高校の頃、同級生たちが光GENJIのかーくんがいい、あっくんがいいと盛り上がっていた横で、誰にも言えませんでしたがわたしにとってのアイドルは、夭折の文士梶井基次郎でした。昼休みには、しばしば一人で図書室に年譜や写真を眺めに通いました。随分さみしい女子高生だなと思われるかもしれませんが、その通りです。いわゆる文学少女でもなかったし、梶井作品の真価を理解することなど、当時も今も私にできるはずもありませんが、作品中で示される誰もが普通の生活の中で目にするようなものごとが、彼のフィルターを通すと素晴らしく叙情的で魅力的な存在として立ち現れるそのさまに、そして、それは心のどこかで微かに自分も感じていたことのような、それを鮮やかに言い当ててくれたような気がするそのことに、若かった当時の私はとにかく夢中になりました。誕生日には母に頼んで、全集を買ってもらったほどでした。
 
すみません。本筋とあまり関係のないどうでもいい話をつらつらと書き連ねておりますが、その梶井基次郎の作品に『ある崖上の感情』という短編があります。そしてそのなかで主人公の心を強く捉えるものというのが、暗がりに浮かぶ家々の窓の明かりの眺めです。久しぶりにそれを思い出したのは、今回ご紹介する『よるのかえりみち』のなかで作者の方が描こうとされているのもまた、夜の明かりの灯った窓が宿す詩情のようなものであるように、私には感じられたからでした。
 
『よるのかえりみち』の作者みやこしあきこさんは、2009年『たいふうがくる』(BL出版)で「ニッサン童話と絵本のグランプリ」の大賞を受賞し絵本デビュー。『もりのおくのおちゃかいへ』(偕成社)では第17回日本絵本賞の大賞を受賞されています。本書『よるのかえりみち』は、ニューヨークタイムズ・ニューヨーク公共図書館絵本賞、ボローニャ・ラガッツィ賞特別賞受賞と海外で高い評価を受け、英語や韓国語、フランス語、簡体字(中国本土)版、スウェーデン語などにも翻訳されている作品です。
 
描かれるのは、日が暮れてすっかり暗くなった頃の静かな街中の通りの風景。家路を歩く母親に抱かれてうとうとする子どもの目に映る、アパートらしき建物の窓からこぼれる明かり。それぞれの部屋に住む人の気配。電話で話す人。料理をする人。賑やかにパーティーを楽しむ人たちの影が揺れる窓の隣の部屋には、ひとり座ってくつろぐ人の姿。各々の窓が並ぶ景色を外から眺める視線と、窓の中の暮らしの様子。それらがそこに漂う夜のしんとした空気と共に、淡々と描き出されます。
 

先ほどの『ある崖上の感情』の主人公は、酒場で一緒になった男と、次のような会話を交わします。
 
「その崖の上へ一人で立って、開いている窓を一つ一つ見ていると、僕は何時でもそのことを憶い出すんです。僕一人が世間に住みつく根を失って浮草のように流れている。そして何時もそんな崖の上に立って人の窓ばかりを眺めていなければならない。すっかりこれが僕の運命だ。そんなことが思えて来るのです。──しかし、それよりも僕はこんなことが云いたいんです。つまり窓の眺めというものには、元来人をそんな思いに駆る或るものがあるんじゃないか、誰でもふとそんな気持ちに誘われるんじゃないか、と云うのですが、どうです、あなたはそうしたことをお考えにはならないですか」…
「さあ…僕には寧ろ反対の気持ちになった経験しか憶いだせない。しかしあなたの気持ちは僕にはわからなくはありません。反対の気持ちになった経験というのは、窓のなかにいる人間を見ていてその人達がなにかはかない運命を持ってこの浮世に生きている。という風に見えたということなんです。」
「そうだ。それは大いにそうだ。いや、それが本当かも知れん。僕もそんなことを感じていたような気がする。」…(『檸檬』(新潮文庫) 収録分より引用)
 
家々の窓の明かりが映す景色は、あたたかな安らぎを感じるものであるけれど、同時にどこか寂しさやはかなさのようなものを含んでいる。
『よるのかえりみち』は、それを言葉でなく絵の力で表現している作品であるように思います。空気を描く。見る人の心情をそこに閉じ込めて描く。もう過ぎ去ってしまった古い記憶がふとよみがえった時のような、不思議な臨場感がこの絵本にはあるような気がします。
 
本作品の他みやこしさんの近年の絵本では、登場人物として人の代わりに動物を擬人化したものがよく描かれています。絵本において動物を主人公として用いるのは、通常は親しみやすい印象を与えるためのものと思われますが、みやこしさんの場合は、それとは違っているように感じます。洋服を着て二本足で歩く人の姿を模した動物たちの顔は皆一様に表情が乏しく、人のそれのように生き生きと何かを伝えることはありません。それがこの独特の魅力を持った作品にどんな効果をもたらしているのだろうかと、今ぼんやり考えているところです。
 
 
 

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