広島 蔦屋書店が選ぶ本 VOL.341『猫を抱いて象と泳ぐ』小川洋子/文春文庫
蔦屋書店・神崎のオススメ『猫を抱いて象と泳ぐ』小川洋子/文春文庫
だれかの人生を、それがフィクションでもノンフィクションでも、その人生をともに歩くことができるのは本を読む楽しみのひとつだ。
少年は無口で内向的。友だちと言えば、大きくなりすぎて遊園地の屋上から降りられなくなり、そこで生涯を終えた象のインディラと、彼の家と隣家の隙間に入り込んで出られなくなり、そのままミイラになった(という噂の)少女「ミイラ」だけだった。
ある日、見事な家に改造された「回送」バスに迷い込む。住人の元バス運転手は巨体を揺らしながら少年を温かく迎え、もてなし、少年にチェスを教える。少年は彼をマスターと呼び、チェスの手ほどきを受ける。少年の才能に気づいたマスターは少年をチェスの広く深い海へと誘っていく。チェスを指すとき少年はマスターの猫を抱いて盤の下に潜る。そうすることで落ち着き、感覚が研ぎ澄まされて集中できるのだ。
マスターが死んで、その巨体を運び出すためにバスが壊されるのを見たとき、大きくなりすぎた象インディラや壁に挟まれた少女ミイラの姿がよぎる。「大きくなること、それは悲劇である」。そう胸に刻んだ少年は11歳のまま成長を止める。
小さな体で盤の下に潜りチェスを指す少年。ある倶楽部がからくり人形リトル・アリョーヒンを操ってチェスを指すことを提案する。こうして少年はリトル・アリョーヒンとなり、盤下の詩人と呼ばれ、伝説となる。決して表には出ない、だれもリトル・アリョーヒンの中の少年を知らない。少年はチェスの駒を通して人と関わり、その人を知り、相手に向き合うと同時に自分とも向き合いながらチェスの広く深い海を泳いでいく。
小川洋子氏の静かで美しい筆致が少年とリトル・アリョーヒンの人生を描き出す。それはまるで静寂に包まれたチェス会場にいるような空気に包まれていて、チェスを知らなくても、その奥深さや美しさを感じることができる。スリルやサスペンス、どんでん返しなどの派手さはない。どちらかといえば地味な作品かもしれない。けれど「最強の手が最善とは限らない」ように、いつまでも心と記憶に残る一冊だ。