広島 蔦屋書店が選ぶ本 VOL.40

【蔦屋書店・丑番のオススメ 『ナンシー関の耳大全77  ザ・ベスト・オブ「小耳にはさもう』ナンシー関著 武田砂鉄編・朝日新聞出版】
 
 

時評という世界がある。過去をふり返ってでなく、現在を評論することだ。当然、まだ評価の定まっていないものに対して評論を行うことになる。たとえば、文芸時評なら、最新の文芸誌に発表された作品をすべて読み、それぞれの文学的な価値をその時点で評することだ。時評には、対象を読み解く力と反射神経が必要とされる。とても難しい仕事だ。その時点で、だれからも評価されなかった作品が、後々評価されるなんていうことは、よくあることである。その逆もまた。

 

その難しい時評という仕事を10年にわたって、完璧に行っていたコラムニストがいる。ナンシー関だ。批評の対象はテレビである。それもドラマなどでなく、バラエティやワイドショーなど後に残らない番組が中心だ。TVを見ていて、われわれが、意識すらできない違和感を言語化してくれた。ナンシー関が何をいうのかを楽しみにしていた時代があった。ナンシー関は2002年に39歳の若さでなくなってしまった。

 

ナンシー関がなくなって、16年。ナンシー関の本はほとんど絶版になってしまった。テレビのサイクルは早い。批評の対象が忘れられゆくなか、ナンシー関も忘れられていった。じゃあ、ナンシー関は、いま読むとつまらないのか。そんなことはない。本書は、1993年から2002年までの10年間『週刊朝日』に連載されていた『小耳にはさもう』から77本のコラムを集めたベスト版だ。

 

ナンシー関の取り上げるテーマのひとつに、芸能人が自分をどう見られたいのかと、どう世間から見られているかというGAPの問題があった。たとえば、突飛なキャラクターを演じておきながら、本当の「わたし」を語りたがるタレントについての厳しい目線。SNSで本当の自分を饒舌に語れるいまには、もっと掘り下げられるテーマだと思う。

 

また、10年分のコラムをまとめていることで世の中の流れの転換点などが見えているのも面白い。たとえば、1996年のアトランタオリンピックの中継について書かれたこんな文章。

 

 

日の丸を背負ってという対オリンピック観の暑苦しさが疎まれるようになってきたのはかなり前からのことではあるが、(中略)今回、なぜか足並み揃って決定してしまった。新たなる合言葉は「感動」である

 

 

感動をありがとう、というオリンピックやワールドカップへのわれわれの態度は96年から成立したのか、と時代の転換点に立ち会うことができる。さらに続くこんな一節はコラムニストとしての本領発揮である。

 

 

どんな結果(戦績)が来ても成立する物語をあらかじめ勝手に作っておくなんてのは、「感動」に保険をかけてるみたいである。「感動させて」という受身の謙虚さのすぐ裏に、すごいエゴがみえる。感動なんて無理やりに家捜しして持ってくるようなもんじゃないだろうに。

 

 

ナンシー関のいない時代をわれわれは生きている。

 
 
 
 
 

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