広島 蔦屋書店が選ぶ本 VOL.42

【蔦屋書店・丑番のオススメ 『全共闘以後』外山恒一・イーストプレス】

 

著者の外山恒一さんを知ったのは、You Tube上だった。東京都知事選での政権放送だ。政権放送なのに、選挙に何も期待しないと言い、国家転覆を主張する。オチも秀逸で、「もし、わたしが受かったら、奴らはビビる。。。そして、わたしもビビる。」で締めくくられる。天然なのか、笑いをとりにいっているのか、わからなかった。その後、泡沫候補を描いたドキュメンタリー映画『立候補』を見た。外山恒一さんも出ていて政権放送の意図を語っていた。「カラオケで発声とか、練習したんだよ!」という外山さんの笑顔はとても素敵だった。完全に計算して、笑いをとりにいっている人だった。そして、主張自体は政権放送にはそぐわないかもしれないが、まっとうなアナキズムの主張だった。

 

本書は、1968年から50年にわたっての社会運動について書かれている。学生運動は1960年代に高揚を迎え、その後、1972年の連合赤軍の一連の事件の発覚によって停滞したといわれている。連合赤軍の仲間同士のリンチによる殺人、東アジア反日武装戦線「狼」などによる過激化する爆弾闘争、中核派と革マル派の延々と続く内ゲバによる殺人。そうした一連の事件によって、心情的に学生運動を支持していた人たちに忌避感が生じ、大衆に支持を失った運動は衰退していった、と言われている。

 

本書は、それにNOを突きつけている。学生運動は、とぎれることなく、継続しているというのだ。1968年から50年にわたる政治運動の通史を描いている。600ページにわたる大著である。読み終えた、いま、その主張に納得し、さまざまな運動の文字通りの「面白さ」に打ちのめされている。

 

それでは、なぜ、運動が衰退していったという歴史観が一般的なのだろうか?著者は、それを社会運動の担い手が変化していったからだと考えている。戦後の日本の左翼運動の担い手は共産党だった。真理を理解し大衆を導く唯一の前衛党である。しかし、1960年の安保闘争でその図式が崩れる、全学連と呼ばれる新左翼の党派が運動の主流を担っていた。それは、真理を理解しているのは共産党でなく、われわれであるという新たな前衛党の誕生である。1970年以降の運動では、全共闘と呼ばれる党派に属さない「ノンセクト・ラジカル」が主流となった。それは、真理は存在せず、もちろん前衛党というものも存在しないということだ。大きな党派でなく、個別のグループによる運動。「歴史」が書かれなかったため、運動が途絶えたように見えているだけだというのだ。その『全共闘以降』について書かれた社会運動の通史が本書である。

 

80年代.著者はそれを軽薄短小な時代という。軽薄短小というと一般に悪い意味で使われる言葉であるが、重厚長大な前衛党を否定する68年以降の政治運動は軽薄短小でなければならない、としている。ユーモアとセンスが必要だということ。本書では、さまざまな運動をまるで水滸伝のように描いている。その中のひとつの運動を紹介したい。法政大学で90年代にあった「法政の貧乏くささを守る会」の運動である。

 

大学の管理化強化に対する反対というのは学生運動のオーソドックスなテーマである。

それに直接的に反対するのではなく、「貧乏くささを守れ」という脱力的面白文脈で抗するセンス。「学食成敗10万人集会」では、生協に戦線布告。「ご飯の量を増やせ!!」、「カレーの具を増やせ!!」と主張。夜間部が縮小されることに反対して、「学生部前飲酒闘争」を決行。串焼きや焼肉なども行い、学生部の部屋の中に焼肉の煙が充満。大学側は「酒盛りを始めるなどという暴挙」という警告を貼り出すが、それをみた学生が「面白そうですね」と言って参加して来る!オーソドックスなテーマをずらし、軽薄短小に展開するセンス。

 

また、50年にわたる通史が描かれることによって、社会運動・政治運動からみた現代史になっているところも読みどころである。1989年や1995年がどのように捉えられているのか。また、著者のユーモアにあふれた文章とサブカルチャーへの言及も本書の魅力だ。

 

そして、そして。本書ラストの一節。まさかこの本で泣かされることになるとは!著者よりもこの本を執筆するにふさわしい人物とは誰なのか。大著ではあるが、ぜひ読んでいただきたい一冊である。

 

 

 

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