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広島 蔦屋書店が選ぶ本 VOL.294『M』岩城けい/集英社

蔦屋書店・中渡瀬のオススメ『M』岩城けい/集英社
 
 
読みたい本があると、いつもはどんどんページをめくります。けれど今回はとびついたものの、すぐには読み始めることができませんでした。岩城けいさんの『M』。ずっと待っていたお話でした。読みたくてしょうがなかったのに、手にしたとたん胸がいっぱになって、表紙を眺めては置いたりして数日間あたためてしまいました。
 
12歳の時に家族でオーストラリアに移住した安藤真人のお話『Masato』、オーストラリアで成長し高校生になったマサトの多感な時期を描いた『Matt』に続く、今作『M』。マサトのその後のストーリーなはずで、今いくつになったのだろう。大学生?社会人?幸せに暮らしているだろうか。いつも気がかりでした。お話の中の人物なのにおかしいですね。でも、私にとって彼は『Masato』で出会って以来、とてもリアルな存在だったのです。
 
安藤真人の物語は三部作と知っていたので、つまりこれが最後のお話です。そう思うと感慨深さとともに寂しさも襲ってきて、なかなか入っていけなかったのでした。
 
さて、いよいよ現在のマット(オーストラリアでの彼の呼称)はというと。読み進めていくと、前にも増して生きづらそうです。いや、彼の葛藤は終わるわけがない。それが分かっていたからこそ気にかけてきたはず。マットが「自分の考えは簡単に言いたくない」と思うまでに慎重に、臆病にならざるを得なかった背景にはアイデンティティの問題があります。オーストラリアで生きてきたマットが話すことばや価値観はオージーそのもの。自分はこういう人間であると思っていても、周りはそうは認識してくれない。いつまでたってもステレオタイプに「アジア人」や「日本人」に仕立てられてしまうのは、読んでいてとてもつらい。
 
国や民族、人種、文化、母語や言葉にまつわる苦悩。海外で暮らすということ。マイノリティであること。大人になる過程でこれらの苦しみは深くなっていくのではないでしょうか。だから岩城さんは三部作という形をとってマットの心の機微を見せてくれたのだと思います。
 
22歳になったマットはマリオネットを作るデザイナーのアビーと出会います。彼女はアルメニアの移民二世。この小説の中に、アビーが未来の夫(架空)に向けて綴った日記がところどころに出てきます。そこに本心を語ることで自分を掘り下げてきたことがわかります。アルメニア人として生きる両親の価値観に添いきれず、自分がどう振る舞うべきか葛藤してきた歴史です。アビーは手紙形式のそれを13歳の頃から始めました。マサトが渡豪したのは12歳。作中に織り込まれたアビーの日記は、別々ではあるけれど二人がこれまで歩んできた年月を重ねてくれて、悩める若者たちを浮き彫りにします。
 
アビーが制作した人形をマットが操ることになり、関係が深まっていきます。惹かれ合い、お互いを知ろうとするにもとても慎重です。はっちゃけたりしないのはやはり背負ってきたものの大きさからでしょうか。オーストラリアに属さないという立場は似ている二人。でも、マットは外見でそうと分かりますが、アビーは白人であるがゆえにわかりにくい。この違いから衝突もしてしまうのです。
 
マットとアビーのやりとりから、読んでいる私たちは、不正確にカテゴライズされるいたたまれなさを追体験します。二人を通して見るこの世界は、とても乱暴です。一方的なレッテルは暴力に値する。相手を推し量るとき、私たちはもっと慎重にならないといけない。人を判断する行為って、ものすごく傲慢なのではないか。人間の属性というものは本当に複雑で、そもそも分類する必要があるのだろうかなんて思ったりもします。
 
マットが自分を省みることばが印象的です。「皆と同じ言葉を使って、人を一括りにしてきたのは僕の方ではないだろうか?僕はちゃんと話せているんだろうか?今、僕は目の前の相手ときちんと会話できているんだろうか?」目の前のアビーを、何人かではなく、ただひとりの人間として見ようとする。そんなマットの姿勢に心を打たれます。相手を尊重し歩み寄ろうとする優しさや柔軟な思考の持ち主がマットなのです。怒りや悲しみを昇華する力をマットは持っている。マットの強さや、自分を映し出すような存在として認め合ったマットとアビーには希望を見出すことができます。岩城さんはお話を書く時、必ずどこかに明かりをともしておこうと考えるそうです。読みながら柔らかい光を感じられることが岩城さんの小説の魅力です。
 
MasatoからMattへ。そしてMasatoとMattは頭文字のMで重なり合う。タイトルが全てを物語っていて胸に迫ります。オーストラリアで歩んできた10年間がマットたらしめている。長い時間をかけてマットを解放に導いた岩城さんの温かさが沁みます。勝手に一人で感極まってしまって恐縮ですが、岩城さん、力強い物語をありがとうございました!と言いたいです。
 
 

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