広島 蔦屋書店が選ぶ本 VOL.98

 

蔦屋書店・犬丸のオススメ『急に具合が悪くなる』哲学者 宮野真生子 人類学者 磯野真穂 著/晶文社

 

 

この本を見た時、表紙カバーの『急に具合が悪くなる』というタイトルと、ヒョウが仁王立ちになり野球帽を被っている絵が、うまく結びつかなかった。裏表紙は、ライオンが同じく野球帽を被り、キャッチャーミットを構え、今まさにボールを受けようと腰を下ろしている。

だが、読み終えると分かる。これしかないと。

 

ヒョウのエースピッチャーは、哲学者・宮野真生子さん、その球を受けるライオンのキャッチャーは、人類学者・磯野真穂さん。

 

いわば、完全試合だった。二十通の往復書簡でのやり取りは、18.4メートルの距離で交わされるバッテリー間の真剣勝負だった。わたしは観客となりこの試合を、拳を握りしめながら、熱くなり、悔しがり、声援を送った。そして、この二人にとてもしびれた。

 

往復書簡は、まずキャッチャー・磯野さんからのサインと言うべき、ピッチャー・宮野さんへの問いかけから始まる。一球目はこれでいこう、ここへ投げてこいと言わんばかりだ。

書簡の一通目。磯野さんから宮野さんへの手紙。

磯野さんは、「急に具合が悪くなる可能性」について宮野さんに問う。「かもしれない」という不確実な可能性の要素を、予定に組み込むことの意味はなんだろう。

宮野さんは癌を患っている。しかも多発転移が起こっていて、あまりいい状態ではない。彼女の癌は、死を意識せざるを得ないところまで、来てしまっている。

癌を抱え生きる宮野さん自身の体験と、この問題を専門的に深めていこうとする哲学者としての観点。その二つを通じて、確率、そして今と未来についての書簡を交わしたいと。

 

マウンドでサインに頷いたかと思うと、ゆっくりとしたモーションから糸を引くようなストレートが投げ込まれたかのような、宮野さんからの返信が届く。

リスクを回避し、安心な道を行くことは、確かに大切なことかもしれない。だが、逆にそれによって、「今」ある可能性の幅を狭めているのではないか。選択するという分岐点の先には、一本道があるのではない。その先にある無数の分岐点を受け入れる。そこから広がる動的で無数の新たな分岐点、可能性の中に入っていくのだと。

 

病気と共に生きる人は皆、日々、リスクや確率の問題を無数に提示されてしまう。例えば、治療方法、薬、仕事の予定など。それはまた、なにをどう選び行動するのかという、無数の分岐点に立つことでもある。

だが、宮野さんの言葉から気付かせられる。

「死」という未来から「今」を考えるのではなく、まだ死んではいない「今」から未来を見つめる。無数の分岐点があることで、可能性が無限に広がったように感じたのだ。

宮野さんが投じた一球は、なんて爽快なのだろうか。

 

その後も磯野さんからのサインは続き、宮野さんは球を投げていく。標準治療と代替医療の関わりについて。偶然と運命。だが途中、宮野さんは、本当に具合が悪くなってしまう。正直、恐ろしかった。この投手戦を投げることができるピッチャーなど他にいない。途中降板してしまったらどうしよう。ページを捲る手が重い。

磯野さんはどうするのだろう。

 

だが、磯野さんは、手を緩めなかった。さらにきわどいサインを出していく。「生」と「死」について切り込んでいく。そのきわどいコースへ宮野さんも次々と投げ込んでいくのだ。それは、読者という観客をも巻き込んでいく。この試合、最後まで見届けるまで席を立つことなどできない。

 

この二十通の往復書簡は、たった二カ月間で交わされた。しかも磯野さんが宮野さんの存在を知ってから九カ月足らず。リアルに会ったのは五回しかなかったという。哲学者と人類学者という、どちらも言葉のプロとだということもあるだろう。そのうえ、名バッテリーがそうであるように、二人がお互いの能力を引き出しあっている。「思いっきり投げ込んで来い」「そんな甘いサインは不要だ」とでも言うように。人との関係は、長い時間が作るだけではなく、短くとも深みのある時間が作り上げる場合もある。だが、そんな相手に出会えるかは悩ましい問題だ。お互いの人生で、無数の分岐点があっただろう、その先で、このタイミングで知り合えるとは。なんとも羨ましい。

 

ただひとつ悔しいのは、宮野さんはお亡くなりになってしまった。なぜわたしは、もっと早く宮野真生子という人を知ることができなかったのか。もう、生の声を聴くことができない。

だが、文章は生きている。これから先、何度でも読み返すだろう。それも、わたしにとっては小さくとも動的な分岐点となるのだ。

名試合が伝説となるように、この本もまた未来に残る一冊となる。

 

 

 

 

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